【鶯谷・上野コラム - 寛永寺】
寛永寺は、東京都台東区上野桜木一丁目に存在する天台宗関東総本山の寺院です。
山号を東叡山と言い、比叡山とちょっと似ています。
開基はあの徳川家光で、開山はかの有名な天海、
そして本尊はこれまた有名な薬師如来なのであります。
ここは徳川将軍家の祈祷所・菩提寺でもありまして、
徳川歴代将軍15人のうちの実に6人が寛永寺に眠っております。
1700年代中ごろからは皇族が歴代住職を務めており、
日光山、比叡山をも管轄する天台宗の本山として近世には強大な権勢を誇りましたが、
慶応4年の上野戦争で主要伽藍を焼失してしまいました。
江戸に存在していた菩提寺のうち、増上寺は中世から存在していた寺院でありましたが、
寛永寺は徳川家により装いも新たに建立された寺院であります。
元和8年には、2代将軍秀忠と当時の天台宗の高僧・天海により、一大寺院の建立を発願したのであります。
秀忠隠居後の寛永2年には、3代将軍家光の時に現在の東京国立博物館の敷地内に本坊が建立されました。
ちなみにこの年が寛永寺の創立年と定められています。
寺の名前は、当時の年号をとり「寛永寺」とし、京都の鬼門を守る比叡山に対して、
「東の比叡山」という意味を込め「東叡山」としました。
比叡山と名前が似ているのはこういう経緯があるからであります。
その後、元禄11年の5代将軍綱吉の時に、
今の上野公園大噴水のあるあたりに根本中堂が完成しました。
根本中堂は間口45.5m、奥行42m、高さ32mという壮大な規模のものでありまして、
寛永寺は諸大名の帰依を受け、大いに栄えたのであります。
その後の承応3年、後水尾天皇第3皇子である守澄法親王が入寺して以来、
門主は「輪王寺宮」と尊称されます。
更には日光山、比叡山の山主をも兼務し、絶大な宗教的権威をもっておりました。
まだまだ話は膨らみ、最盛期になりますと、ナント今の上野公園の2倍の面積の寺地を有していたというのですから、
それはそれは計り知れない規模のものだったと想像出来る訳であります。
その後の幕末の慶応4年には、彰義隊の戦の戦場となったこともありまして、
根本中堂をはじめ主要な箇所は焼失してしまいます。
その中でも焼け残り、また、第二次世界大戦の戦災にもまぬがれたいくつかの建物があります。
それは現在も尚、上野公園内の各所に点在していおります。
東京芸術大学音楽学部の裏手にある上野公園内の清水堂、そして弁天堂などのにぎわいに比し、
本堂周辺は訪れる人もまばらであり、いつもは静かな佇まいをみせております。
現在の堂は大慈院のあった敷地に、明治12年に移築したもので、
残念ながら寛永寺本来の建物ではありません。
但し、内部には秘仏本尊薬師三尊像を安置しており、そこに寛永寺の本来の姿を垣間見ることが出来ます。
そして、ここに存在する書院は、かの徳川慶喜が水戸退去前に2ヶ月ほど滞在していた部屋が保存されています。
また、通称黒門と呼ばれる門がありまして、そこは東京国立博物館東側の輪王殿にあたります。
輪王殿は寛永年間の建造物で、もとは現在の東京国立博物館正門の位置にあったと言われております。
上野公園内の西郷隆盛銅像の近くにありまして、千手観音を祀ると言われている堂こそが清水観音堂と言われる堂です。
寛永8年の建築で、規模こそそれほど大きくありませんが、本場の京都の清水寺と同様の懸造建築であります。
上野公園南側にある弁天堂は、かつて、不忍池の中之島に天海が琵琶湖の竹生島の宝厳寺の弁財天を勧請して建立したものです。
昭和20年に戦災で焼失してしまいましたが、13年後の昭和33年に再建されました。
寛永16年に古河城主である土井利勝によって再建された旧寛永寺五重塔は、
現在、塔は上野動物園の敷地内にありますが、所有者は東京都になっております。
もともと塔の一番下に安置されていた釈迦如来・薬師如来・弥勒菩薩・阿弥陀如来の四仏は
現在は東京国立博物館に寄託されております。